東京地方裁判所 昭和52年(ワ)2135号 判決 1979年5月28日
原告 脇正道
被告 国
訴訟代理人 金沢正公 斎藤和博
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は原告に対し金二二六万六〇八〇円及びこれに対する昭和五二年三月二九日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 主文と同旨
2 担保を条件とする仮執行免脱の宣言
第二当事者の主張
一 請求原因
1 本件事案の概要
(一) 原告は、昭和四三年八月五日午後九時一分頃、勤務先のグレラン製薬株式会社所有の普通乗用者(パブリカ、以下「原告車」という。)を運転し埼玉県上尾市上町二丁目一四番一九号先道路(国道一七号線上尾消防署前路上)の第二通行帯を熊谷方面から大宮方面に向かつて進行していたところ、後方から進行してきた訴外稲垣春雄(以下単に「稲垣」という。)の運転する大型貨物自動車(以下、「訴外車」という。)と接触し、その際の衝撃により原告車が右へ一八〇度転回し助手席のドアが突然開いたため、同助手席に同乗していた原告の婚約者訴外鈴木京子(当時二一歳)は路上に転落し死亡した。
(二) 右事故発生の報告をうけ、同日事故現場に臨んだ埼玉県警察大宮警察署勤務の司法警察員警部補山岸重雄(以下「山岸警部補」という。)は、本件事故を業務上過失致死被疑事件として捜査を指揮し、稲垣から事情を聴取したのち、原告を右被疑事件の現行犯人として逮捕した。更に山岸警部補は、原告が婚約者を一瞬のうちに失つて取乱し到底正確な指示説明をなし得る精神状態ではなかつたため、稲垣の指示説明のみに従つて、同日午後九時一五分から同一〇時三〇分まで実況見分を行い、その調書を作成した。
(三) 原告は捜査官の取調べに対し一貫して次の事実を述べ、原告には過失がない旨を主張した。
「本件事故は、原告が前記日時に前記場所を婚約者鈴木京子を同乗させて原告車を運転し熊谷方面から大宮方面に向つて時速五二キロメートルの速度で第二通行帯を進行してきたところ、進路前方の右側から出て来た普通乗用者が右折するために原告車の走行車線へ進入しようとしているのを認めたため、ハンドルを少し左に切つたところ、左後方から進行してきた訴外車が原告車の左後部に追突し、更に訴外車の右後輪と原告車の左後部が接触した結果原告車が半回転し助手席のドアが開いたため、同乗していた鈴木京子が転落死亡したというものであり、原告は第二通行帯から第一通行帯に進路を変更したことはない。」
(四) ところが、所轄の大宮警察署から本件送致を受け事件処理の任にあたつた浦和地方検察庁検察官検事佳川尚夫(以下「佐川検事」という。)は原告の右弁解を無視し山岸警部補作成の実況見分調書、稲垣の供述調書等を証拠として、原告を被告人とし、以下の公訴事実により、昭和四四年八月二八日、大宮区検察庁検察官副検事大沢計介をして公訴を提起し、略式命令の請求をなさしめた。
「被告人(原告)は、自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和四三年八月五日午後九時一分頃普通乗用自動車を運転し上尾市上町二丁目一四番一九号先道路の第二通行帯を熊谷方面から大宮方面に向かい時速約五二キロメートルで進行中進路を変更するにあたり、その合図をし、徐行しつつ前後左右の安全を確認して左の第一通行帯に進路を変更すべき注意義務があるのに、その合図をせず、左後方の安全を確認することなく第一通行帯に進路を変更した過失により、おりから進路左側第一通行帯を後方より進行してきた稲垣春雄(当四六年)運転の大型貨物自動車に自車を衝突させ、その際の衝撃により自車左側ドアを開かせて同乗の鈴木京子(当二一年)を路上に転落せしめ、よつて同人を同所において頭蓋骨々折等により即死させたものである。」
(五) 右業務上過失致死被告事件に対し大宮簡易裁判所は、昭和四四年九月四日、「被告人(原告)を罰金五万円に処する。右罰金を完納することができないときは、金五〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。」との略式命令をなしたが、原告はこれを不服として正式裁判の請求をなしたところ、大宮簡易裁判所は、昭和五〇年二月二一日無罪判決の言渡をなし、右判決は検察官からの控訴申立てもなく同年三月八日確定した。
2 被告の責任
本件公訴の提起は、公訴提起の段階において、公訴事実につき犯罪の嫌疑不十分で有罪の判決を期待しうる合理的な根拠がなかつたにもかかわらず、検察官が証拠の蒐集を怠り又その評価を誤つた結果事実を誤認してなした違法なものであるから、被告は国家賠償法第一条により、原告の蒙つた次項の損害を賠償する責任がある。
(一) 検察官が、本件公訴事実認定の根拠とした各証拠の信用性、正確性には以下のような問題があつた。
(1) 稲垣の捜査段階における供述は信用できないものであつた。
即ち、同人は単なる目撃者ではなく本件事故の一方の当事者で、現に実況見分の当時には原告とともに相被疑者と見られていたものであり、原告が一瞬のうちに婚約者を失い、荘然自失していることを奇貨として本件事故の責任を原告に転嫁しようと考え、自分が追抜きをかけ追突したことを隠ぺいしようとしたであろうことは経験則上容易に推測できたし、また、右稲垣の指示説明に基づく本件実況見分調査に表わされた原告車の走行軌跡は到底常識では考えられないものであるなど、稲垣の供述は信用できないものであつた。
(2) 本件実況見分調書は、初動捜査にあたり客観的に存在する事実関係を証拠として保全するという実況見分の目的を果たしていない。
即ち、本件実況見分調書は原告が指示説明できる精神状態でなかつたため稲垣の指示説明のみに基づいて作成されたにもかかわらず、原告の指示説明がなされたかの如く記載され、事故車両の破損状況についても原告車は「左後方フエンダー及び後方ガラス破損」、訴外車は「右後輪に接触のためガラス及び塗膜片」とのみ記載し、現場写真もその部分のみを撮影し、その余の破損状況についてはこれが存在するにもかかわらず全く記載していない。また、本件実況見分調書に添付された交通事故現場図も、稲垣の指示説明を鵜呑みにして作成されたため、そこに記載された原告車両の軌跡は常識では考えられないものとなつた。
(二) 原告は証拠保全のため浦和地方裁判所及び前橋簡易裁判所に対し原告車及び訴外車の検証を請求し、本件公訴提起前である昭和四三年九月一七日頃佐川検事に宛てて右結果を記載した上申書を提出した。
原告は、右上申書に、右検証の結果によれば(一)原告車の損傷部分は、後部プロテクター左側部分、左側後輪フエンダー部分及び後部窓の左側部分の三か所であり、訴外車の損傷部分は後部右側の荷止め金具の後方への屈曲のみであること、(二)原告車の左後部フエンダーの損傷とプロテクターの損傷は同時にできたものではないこと、(三)原告車の左窓枠部分の損傷は訴外車の右後部荷止め金具(打棒)により引つかけられたものであることが明らかであること、(四)原告は本件事故により鞭打ち症の傷害を負つており、これは追突されたことによるものであること、以上からすれば(五)本件事故の態様は、最初に訴外車の右前輪ナツトの部分が原告車の左後部プロテクターに追突し、次に訴外車の右側後輪が原告車の左後部フエンダー部分に衝突、最後に訴外車の左後部荷止め金具の打棒により原告車の左後部窓枠部分を引つかけて半回転きせたものと判断されることを記載し、きらに衝突予想図や写真を添付し、本件実況見分調書が正確に事故車両の破損状況を記載していないこと、稲垣が述べるような原告の進路変更が原因で本件事故が発生したものと考えることには疑問があり、本件事故は稲垣のスピードの出し過ぎ及び前方不注視という一方的な過失によるものと推測される旨を上申した。
(三)従つて、事件処理の任にあたつた検察官としては、右上申書が提出された時点では本件実況見分調書の車両の破損状況の記載の不備に気付き、稲垣の衝突状況に関する供述の信用性にも疑いをもつた筈であるから、公訴提起前に両車両の破損箇所及びその状況を確認し、その鑑定を行うなどなお必要な証拠の蒐集をなすべきであつたのに、これを怠つた結果、証拠の評価を誤り本件公訴事実は嫌疑十分であると誤認して本件公訴を提起したものであるから、本件公訴の提起は違法である。
3 損害
原告は、本件公訴を提起されたため以下のとおりの損害を蒙つた。
(一) 交通費 金五万五三〇〇円
内訳は、別表(一)の「原告支出の交通費明細」記載のとおりである。
(二) 弁護士費用 金二一万七八〇円
本件業務上過失致死事件の刑事弁護のための手数料金一〇万円、成功報酬金一〇万円並びに別表(二)記載の交通費金一万七八〇円の合計金二一万七八〇円。
(三)慰籍料 金二〇〇万円
原告は、本件公訴を提起されたため、著しく名誉を傷つけられたばかりか、昭和四三年一〇月末グレラン製薬株式会社を解雇されて職を失い、その後も転々と職場を変えぎるを得ない破目に追い込まれた。また、右公訴提起以来六年間「被告人」という肩書きのもとに苦悩し続け、無罪判決確定まで結婚する気にもなれずひたすら婚約者の冥福を祈り続けてきたもので、原告の精神的損害の慰籍料としては金二〇〇万円が相当である。
以上合計 金二二六万六〇八〇円
4 結語
よつて原告は被告に対し右損害金二二六万六〇八〇円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日である昭和五二年三月二九日から右支払済に至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
二 請求原因に対する認否及び主張
1 請求原因1の事実中、山岸警部補が実況見分を行つた際、原告が到底正確な指示説明をなしうる状態ではなかつたこと、従つて山岸警部補が稲垣の指示説明のみによつて実況見分調書を作成したこと、原告が捜査官の取調べに対し一貫してその主張の如き弁解をなし自己に過失がない旨を主張したこと、佐川検事が原告の右弁解を無視したことはいずれも否認し、その余の事実は認める。
2 請求原因2の事実中、原告が浦和地方裁判所及び前橋簡易裁判所に対し事故車両の検証を請求し、原告主張の日佐川検事宛てにその主張の如き上申書を提出したことは認めるが、その余の事実は否認し、主張にわたる部分は争う。
3 請求原因3の(一)、(二)の事実は不知、同日の事実は争う。
4 本件につき担当検察官が蒐集した証拠及びその信用性は次のとおりである。
(一) 本件事故につき原告に過失があるかどうかを決定するについての主たる争点は、原告車と訴外車の衝突地点が第一通行帯か第二通行帯かであるところ、稲垣の司法警察員に対する供述調書には「私が勤務先の事業用大型貨物自動車の助手席に三男満を同乗させて、東京方面に向つて時速約五〇キロメートルの速度で本件事故の発生した一七号線第一通行帯を走行中、私の右斜前方五ないし六メートルの第二通行帯を併進するような形で走つていた原告車が事故現場にさしかかつた途端、急に左側に寄つたため私は『あつ』と瞬間的に左にハンドルを切つてブレーキを踏んだのですが、このとき右後方に当るシヨツクを感じ、その直後、私の車は左側の縁石に乗りあげ四、五〇メートル先で止つた」旨の記載があり、原告及び稲垣両名が立会した山岸警部補作成の本件実況見分調書によると「原告車と訴外車の接触地点は第一通行帯であつて、同接触地点の東側にはガラス破片が散乱し、原告車の左後方フエンダー及び後方ガラスが破損し、訴外車の右後輪に接触のためガラス及び塗膜片が付着している」旨の記載がある。なお、原告は右実況見分にあたつては自失していたため指示説明できるような精神状態ではなく、現場において指示説明した事実がない旨主張しているが、起訴当時においては山岸警部補及び稲垣の各供述によると、原告の指示説明そのものは通常の精神状態のもとに的確に行なわれたものと認められた。してみると、原告車と訴外車の接触地点は第一通行帯であるとする右稲垣の供述は十分措信しうると認められたのである。
(二) 原告は、司法警察員及び検察官に対して、本件事故の状況につき「現場にさしかかると右方から乗用車が東京方向に向つて右折するようでてきたのを認め、この車をきけるためやや左に進路を変えた瞬間、追突された」旨弁解するが、これは右各証拠に反するばかりか本件実況見分調書によれば原告車の後部に追突された傷跡のないことが明らかであるから、原告の右弁解は合理性がないと解された。
(三)以上のとおり稲垣の供述ならびに本件実況見分調書の記載は信用に値するものであるのに対し、原告の弁解は右供述に反するばかりか客観的事情とも矛盾し、合理性を欠くものと認められたので、担当検察官は原告が何ら合図することなく第二通行帯から第一通行帯に進入し訴外車と接触し事故を発生せしめた刑事責任は明らかであり、優に有罪判決を期待し得るとの確信を抱くに至り、本件公訴を提起したものであつて、右認定が通常の検察官に要求される自由心証の範囲を著しく逸脱したものとは認められず、その判断に何ら違法性ないし過失はない。
第三証拠<省略>
理由
一 原告が請求原因一1(一)記載の交通事故に遇い、その後同1(四)記載の公訴事実により起訴され、これにつき同1(五)記載のごとく無罪の判決が確定したことは当事者間に争いがない。
二 本件公訴提起の適否について
1 検察官は、公訴提起時までに手許に有する証拠及び公判係属中に入手することが確実に予測できる証拠に基づき、犯罪の嫌疑が十分で有罪判決を得る合理的な可能性が存在すると判断する場合には、当該被疑者につき、起訴便宜主義のもとにおいて公訴提起が要請される限度において、公訴を提起する職務上の義務を負い、訴訟終結時までに蒐集された証拠に基づき無罪の判決がなされた場合でも、直ちに右公訴提起が違法であつたとすることはできないけれども、検察官が事案の性質上当然なすべき捜査を怠つたり、または存在する証拠の評価ならびに経験則の適用を誤り、自由心証の範囲を逸脱して事実を誤認し、犯罪の嫌疑がないのにかかわらず、公訴を提起するに至つた場合、かかる公訴の提起は違法であり、これにつき検察官には過失があると解するのが相当である。
2 そこで案ずるに、<証拠省略>によれば、本件公訴提起当時検察官が手許に有した証拠中原告が進路を変更したか否かという過失の有無を認定するにつき重要な証拠は、山岸警部補作成の実況見分調書、稲垣の司法警察員に対する供述調書並びに原告の司法警察員及び検察官に対する各供述調書であるが、右稲垣の供述の要旨は、「同人が事故発生当日」訴外車の助手席に同人の三男訴外稲垣満(当時一七歳)を同乗させて本件事故の発生した国道一七号線の第一通行帯を東京方面に向つて時速約五〇キロメートルの速度で走行していたところ、訴外車の右斜前方五ないし六メートルの第二通行帯を併進する形で走つていた原告車が、本件事故現場にさしかかつたとき突然左側に寄つたため、同人は瞬間的に左にハンドルを切つたが間に合わず右後方に当るシヨツクを感じ、その直後、訴外車は左側の縁石に乗りあげ衝突地点から四〇ないし五〇メートル先で停止した。」というものであり、また、原告及び稲垣の両名が立会い指示説明した旨の記載されている本件実況見分調書には「原告車と訴外車の接触地点は第一通行帯であり、同接触地点の東側(第一通行帯側)にはガラスの破片が散乱し、原告車の左後方フエンダー及び後方ガラスが破損し、訴外車の右後輪に接触のためガラス及び塗膜片が付着している。」旨の記載がある。一方原告の司法警察員および検察官に対する供述の要旨は「原告が原告車を運転し国道一七号線の第二通行帯を東京方面に向つて時速五二ないし五三キロメートルの速度で進行中本件事故現場付近にさしかかつたところ、進路前方約三〇メートルのセンターラインの右側に普通乗用車が右折するために原告車の走行車線へ進入しようとして一旦停車しているのを認めた原告は右車両が原告車の通過を待つて発進するのだろうと思い、そのまま直進したところ、二五メートルの距離まで近づいた途端、右車両が急に発進しセンターラインを越えて原告車の進路前方へ進入しようとしてきたために危険を感じ少しハンドルを左に切つたところ、左後方からやつてきた訴外車に追突された。」というものである。また、前掲右証拠によれば、第一、第二通行帯の幅員はそれぞれ約三.五メートルあること、本件事故現場付近は駐車禁止の交通規則の布かれているところで現に事故発生当時も、第一通行帯の路肩付近に駐停車中の車両はなかつたこと、また事故当時は夜間でしかも夕方から降りはじめた雨が降り続きかなり暗かつたこと、原告車はヘツドライトを下向きにして時速約五二キロメートルで走行していたことの各事実を認めることができる。
以上の起訴当時検察官の手許に存在した証拠からすれば、(一)原告が急にハンドルを左に切つたことは被疑者たる原告も自認する明白な事実であり、しかも右ハンドル操作は、進路前方の右側から進出して来た右折車の原告走行車線への進入という予期に反した前記の如き悪条件のもとでかなり慌てて行なわれたこと、(二)一方、第一通行帯を走行していた訴外車がわざわざ第二通行帯に進入して走行せぎるを得ないような事情はなかつたこと、日本件事故により破損した原告車のリアウインドウのガラス破片が第一通行帯に散乱していたことの各事実を認定することが可能であり、それぞれの証拠が補強し合い十分に公訴事実を認めることができるから、本件業務上過失致死事件の事件処理にあたつた検察官が起訴当時本件公訴事実が存在すると判断したとしても、右認定が通常の検察官に要求される自由心証の範囲を逸脱したものとは認められない。
なるほど<証拠省略>によれば、(一)原告は終始司法警察員及び検察官に対し原告車が第二通行帯から第一通行帯に進路を変更したことはないかの如き弁解をしていること、(二)稲垣は本件事故の一方の当事者として、実況見分及び警察での取調べ段階では被疑者として扱われていたこと、(三)本件実況見分調書は、事故車両の衝突地点を認定するうえで極めて重要な原告車のリァウインドウのガラス破片の散乱状況につき同調書の現場の模様欄中の「その他の現場の模様」の中で、同調書中の事故発生時の状況(立会人の指示説明)欄下部の略図の第一通行帯上に表示した×点をもとにして、「現場×点東側付近にはガラス破片が散乱しており」と記載するのみで、実況見分の結果を図示するものとして右調書に添付された「交通事故現場図」にはこれを明示していないし、添付の「現場写真」中にも右状況を撮影したものはないことを認めることができるが、(一)の原告の弁解は前掲各証拠から合理的に推認される前記各事実と矛盾するものであるから、検察官が同弁解に合理性がないと判断したとしても証拠の評価を誤つたものとは言い得ないし、(二)の事実から、事故の一方当事者として相被疑者の立場にある者の供述の信用性につき十分意を用うべきことは、大多数の交通事故の捜査について捜査官が注意すべきことであつて、本件事故に固有の問題でなく、これが直ちに稲垣の供述の信用性を失わしめるものではないことはいうまでもなく、むしろ本件事故の捜査にあたつた司法警察員としては本件につき予断を抱くことなく本件事故の両当事者を公平に取扱つたことを裏づけるものである。また、(三)の事由については、確かに可法警察員が初動捜査にあたり客観的に存在する事実関係を証拠として保全すべき実況見分の目的からすれば、本件実況見分調書が必ずしも完全ではなかつたと言い得るにしても、他に反対の資料の存しない以上は、そのことがら直ちに右調書に記載されたガラス破片の散乱位置が誤つているとまで見ることはできないから、結局右いずれの事由も前記認定に影響を与えるほどのものとは考えられない。
ところで、原告は、本件事故発生当時原告は婚約者を一瞬のうちに失い正常な精神状態ではなく、到底正確な指示説明ができる状態ではなかつたため、本件実況見分は稲垣の指示説明のみによつたものであるから右実況見分調書は信用できないと主張するので、この点につき検討するに、当時、婚約者を一瞬のうちに失つた原告が深い悲しみに襲われていたであろうことは推測するに難くないが、<証拠省略>によれば、本件実況見分調書には原告自らが立会い指示説明をなした旨の記載のあることが認められるし、また、<証拠省略>によれば、原告は右実況見分の終了した昭和四三年八月五日午後九時三〇分、業務上過失致死被疑事件の現行犯人として逮捕されているが逮捕前後の状況を記載した現行犯人逮捕手続書には原告が突然ハンドルを左に切つた理由、同乗者の氏名等明らかに原告の供述によらなければ知りえないと思われる事実関係の記載があり、原告が事故発生後間もなく事故の状況につきかなりの程度具体的な供述をし得たことが認められ、以上からすれば起訴当時検察官が本件実況見分調書につき原告主張の如き問題点は存していないと判断したことに不合理な点はないと言うべきである。
以上判示したところからすれば、検察官は起訴時に現に存在する証拠をその信用性をも含めて総合的に評価判断して本件公訴事実を認定したものと認められるのであつて、その証拠の評価、事実認定が自由心証の枠を逸脱したものとは認められない。
3 次に、原告は本件起訴前に浦和地方裁判所及び前橋簡易裁判所に証拠保全のため原告車及び訴外車の損傷の部位・程度についての検証の請求をなし、担当検察官に対しその結果を記載した上申書を提出し、具体的根拠を示して本件実況見分調書は車両の破損状況を正確に表わしていないものであること、稲垣の事故原因に関する供述には疑問のあることを指摘したのであるから、検察官は右各証拠の信用性に疑問を抱き、さらに、事故車両の破損箇所及びその状況を確認し、その鑑定を行うなどなお必要な補充捜査を行い証拠の蒐集を行うべきであつたと主張するのでこの点につき判断するに、本件公訴提起前である昭和四三年九月一七日頃原告から本件業務上過失致死被疑事件の担当検察官に宛てて請求原因2の(二)記載の如き上申書が提出されたことは当事者間に争いがなく、右事実と<証拠省略>を総合すれば、本件実況見分調書は両車両の破損状況を必ずしも余すところなく正確に記載していないこと、担当検察官としても右上申書により本件実況見分調書の右不備に気付き得た筈であることを認めることができる。ところで事故車両の破損状況を正確に知ることが事故の態様並びに事故の原因を明らかにするうえで特に重要な意味を持つことは言うまでもないが、本件においては検察官が自らあるいは司法警察職員に命じて車両の破損状況を再調査し、衝突状況について鑑定をなきなかつたことを捉えて捜査上の過失ということはできない。なぜならば、検察官が補充捜査をなしさらに証拠の蒐集に努めるべきかどうかは、事案の性質、既に蒐集された証拠及び確実に入手が予測される証拠の証拠能力、証明力等を総合的に判断して有罪判決を得る客観的、合理的な見込みが十分であるか否かにより決すべき裁量行為であつて、これをなさなかつたことが右裁量の範囲を越えて検察官の義務違反であるというためには、当該証拠の蒐集が通常当然になすべき補充捜査と言えること及び右証拠の蒐集懈怠のため事実認定を誤り、ひいては有罪判決の可能性のない事件につき起訴した場合であることを要するところ、本件では以下に述べるように右いずれの要件も充たされていないからである。
即ち、本件では原告の進路変更についての過失が問題とされており、主たる争点は原告車と訴外車の衝突地点が第一、第二通行帯のいずれであるかということであるところ、本件実況見分調書の記載中、右衝突地点の判断に当り特に重要な箇所は、原告車のガラス破片の散在位置であり、これについては事故当事者からの指示説明を待つまでもなく、本件実況見分にあたつた司法警察員が事故現場の客観的状況として自らの認識によりこれを記載しているものと認められるし、前記上申書も車両の破損状況の不備についてのみ指摘するにすぎないものであるから、検察官が、前記認定の如く原告車には進路の急変更を余儀なくされた事情がある一方、訴外車には第二通行帯に進入すべき事情がなかつたことと、右実況見分調書記載の原告車のガラス破片の散乱位置等を総合考量し両車両の衝突地点は第一通行帯内にあると認め、原告には進路を変更するにつき後方の安全を確認しなかつた過失があると認定するに十分であると判断し、さらに、両車両の接触の態様につき鑑定する等の補充捜査をなさなかつたとしても、これをもつて通常なすべき補充捜査を怠つたものとは言い得ない。
次に、仮に両車両の破損状況から推定される両車両の衝突状況につき鑑定を行い、衝突の回数、その態様につき原告が上申書で指摘するとおり、本件事故が先ず訴外車の右前輪ナツト部分が原告車の左後部プロテクターに追突し、次に訴外車の右側後輪が原告車の左後部フエンダー部分に衝突、最後に訴外車の右後部荷止め金具の打棒で原告車の左後部窓枠部分を引つかけて半回転させたものとの鑑定結果を得たとしても、右の如き態様の事故の発生は第一、第二通行帯のいずれにおいても発生し得るのであるから、このことがら直ちに原告には進路変更の過失がないとの判断を引き出すことはできないし、また、本件事故の発生が原告主張の如き稲垣の一方的過失によるものと断ずることもできない。従つて結局本件においては、原告の主張する補充捜査をなしたとしても、有罪判決の可能性に影響を及ぼす消極的な証拠を獲得することが期待できる情況にはなかつたものと言わざるを得ない。
4 以上に考察したところから明らかなとおり、担当検察官の本件公訴事実に関する前示心証形成が自由心証の範囲を著しく逸脱し、経験則上首肯し得ない程度に非合理なものであつたとは到底認めることはできない。
三 よつて、原告の本訴請求はその余の判断をするまでもなく失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 落合威 塚原朋一 原田晃治)
別表(一)<省略>
別表(二)<省略>